雪解けの音色

学校の中も静まり返ってきた放課後、僕は音楽棟に忘れ物をとりに行っていた。

 

アブラゼミがやかましく鳴いており、日が沈んでいる頃合いにもかかわらず額からは止めどなく汗が吹き出してくる。

 

今日は部活動で疲れたから早く帰りたい。

僕は落ちてくる汗を手で拭いながら駆け足で廊下を歩く。

 

「タラタッタッタータータ♪」

 

僕が教室の前を通り過ぎようとした瞬間、温かみがあり艶やかな音色が聞こえてきた。

 

とても落ち着く音だ。急いでいたはずの僕は足を止め立ち止まっていた。

 

曲名は確かモーツァルトクラリネット協奏曲だったはずだ。僕が最後の演奏会で吹いた楽曲もこの曲だった。

 

いつぶりだろうか、クラリネットの音色を耳にしたのわ。

 

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それはいまからちょうど5年前の中学2年の夏休みの出来事だった。

友達の家で遊んでいた僕に突然じぃじから電話がかかってきた。

 

その声からはひどく取り乱していることが感じられ、なにか大事があったのではないのかと勘付くことは容易だった。

 

結果から言うと母が死んだ。急死であった。

父と母は僕が幼い頃に離婚してしまったらしい。僕は母に引き取られ、めいいっぱいの愛情を注がれながら育った。

 

僕はいつもそんな母に感謝していた。今考えると母に反抗したことすらなかった。なにより、僕を第一に考えてくれる母のことが大好きだった。

 

その分、母が死んだ時の悲しみや絶望感は凄まじいものだった。

 

母親が死んでから心に穴が空いたかのように何をやっても楽しめなかった。

 

友達と話していてもどこか楽しくない。笑顔を取り繕うことすらが苦痛だった。なければならない感情がいくつか失われていたようだった。

 

病院ではうつ病と診察された。

興味や喜び、活力が失われる精神の病である。

 

僕は幼い頃からクラリネットを習い続けていた。先生からはこのままいけば一流のクラリネット奏者になれると言われていた。

 

家族からも期待されており、僕もその期待に応えようと必死で練習をしていた。

 

僕は演奏している時、自分だけの世界に没頭できるクラリネットが大好きだった。

 

だけど、母と死別して以来演奏していてもどうも楽しめなかった。

 

そんな僕がクラリネットに関わる資格はないと思いクラリネットから距離を置いた。こんなやつが演奏している音色では周りまでをも暗くしてしまう。

 

今でもあの時の選択は間違ってはいないと思っている。

 

うつの症状に悩まさるようになって以来、毎晩自分が思ったことを日記に記すのが日々の日課になっていた。辛いこと、少しでも感情が揺れ動いたことをなんでも書いた。

 

そのおかげもあってか高校に入るときには友達と違和感なく話すことができるレベルにはうつの症状が回復していた。

 

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この綺麗な音色はどんな人が奏でているのだろうか?

気づけば僕は教室のドアに手をかけていた。

 

そっとドアを開けると教室の真ん中にある椅子に座わり、譜面を見ながらクラリネットを吹く少女の姿が見えた。

 

彼女は誰がみても美人だというだろう。しっとりとした黒髪に整った鼻筋が印象的だ。

 

少女は僕の存在には気付いてないようだ。譜面を見る顔は真剣そのもので音楽の世界に没頭しているように見えた。

 

どれほど、彼女を見つめていたのだろうか?

僕が気がついた頃には演奏は終了していた。

それほど僕は彼女の演奏に魅了されていた。

 

少女はクラリネットを置き、譜面をゆっくりと閉じた。その動きさえも綺麗に思えた。

 

「どうだった?」

 

突然少女の口から言葉が発された。彼女の位置から僕の姿は見えていないはずだ。いつから僕のことに気づいていたのだろうか。

 

「綺麗だと思った…。」

 

僕は咄嗟に、一番初めに頭に思い浮かんだ言葉を伝えた。

直感的に綺麗という言葉が一番彼女の演奏に合うと思った。

 

「そう。」

 

彼女は一言そう告げると、こちらを一瞥もせずに再び練習に戻ろうとする。

 

僕はそんな空気感にいたたまれずに教室から出て忘れ物をとりに行くことにした。

 

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彼女とは必要最低限の会話しか交わしてない。なんのために感想を聞いてきたのかもわからない。

 

だけど、名前も知らない少女が奏でる曲を聴いている時間がとても楽しかった。

同時にあの少女のことが気になって仕方がなくなっていた。

 

自分でも久しぶりの感情の高揚に驚きを感じていた。

その日の日記はこの時の出来事でいっぱいだった。

 

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次の日の放課後、僕は再び音楽棟を訪れていた。時間は午後6時半、部活を終えた生徒達が帰路につく時間である。

 

吹奏楽部が使っている教室からは昨日と同じくクラリネットの音色が聞こえてくる。

 

教室の窓からは昨日の少女の姿が見えた。部活動が終わった後も一人で熱心に自主練をしているのだろう。

 

あの少女のことが気になる。そんな思いに動かされ僕は教室のドアを開けた。

 

演奏がピタりと止み、少女と目が合う。

ドキッと心臓が鳴ったような気がした。それは恋心からなのかそれとも単なる驚きからなのかはわからなかった。

 

しばらく、視線が交差したままの気まずい時間が続いた。

 

「ごめん、また演奏を聞きたくて」

 

先に口を開いたのは僕の方だった。演奏を聞きたいと言うのは紛れもない本心である。

 

少女は考えた様子を見せた後、少し頬を緩ませて

 

「私の演奏でいいのなら」

 

と答えた。ふいに彼女が見せた笑顔に自分の顔が少し赤くなるのを感じた。

僕ってこんなに惚れっぽかったっけと思うと共に久しぶりに訪れた恋心を自覚した。

 

演奏が終了するたびに僕は感想を伝えた。彼女もそんな僕の感想を真剣に聞いてくれていた。

 

途中から彼女は僕がクラリネットを習っていたことに気づいた。それがあってか彼女が少し僕に対して心を開き出したように感じた。

 

気づけば僕らは話に夢中になっていた。

彼女の名前は彩る音と書いて彩音というらしい。彼女の両親は生粋の音楽家らしい。子供にも音楽を彩る何かをして欲しいという思いからつけられたのだろうか?

なんにせよ彼女にぴったりの名前だと思った。

 

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この日から僕は毎日のように音楽棟へ通うようになった。

 

お互いに過去の話、音楽の話、なんでも話した。感性が合うとはこのことなんだと思うほど気が合った。

 

僕に訪れた一番の変化といえば再びクラリネットを手に取ったことだ。

彩音クラリネットをもう一度やるように説得され僕が折れた形だ。

 

今はあの頃のようにクラリネットの演奏を最高に楽しんでやれている。彩音との出会いがクラリネットと僕を再びつないでくれた。

 

うつの症状もすっかりと消え失せて日々が充実していた。

 

そして日記は毎日、彩音と一緒に演奏したことや会話したことでいっぱいになっていた。

 

 

日記の最後のページには、二人が笑顔で子供にクラリネットを吹き聞かせている様子が描かれている。

 

ーーーーーーーーーーfin

 

実際の人物の恋愛模様を題材にして制作しました。

 

ペンネーム:恋路を邪魔せし者A